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作品紹介
  • 特別出展


    特別出展
    門外不出の至宝 ジョルジュ・ド・ベリオ コレクション



    印象派の画家たちの友人でもあり、医師でもあったジョルジュ・ド・ベリオの収集した印象派コレクションは、彼の死後、娘のヴィクトリーヌによってマルモッタン美術館に寄贈されました。

    門外不出と言われるド・ベリオ・コレクションから新潟展には≪テュイルリー公園≫が特別出展されます。
    ド・ベリオ・コレクションはマルモッタン・モネ美術館の中核をなす作品群で、滅多に貸し出されることはありません。本展はこれらを間近にご覧いただける貴重な機会となります。

  • 第1章


    第1章 家族の肖像

    移ろう自然を描くことに情熱を注いだモネは、肖像画をわずかしか描いていません。なかでも今回展示する子供たちの肖像画は、モネの生前には発表されることもありませんでした。本章では、モネが亡くなるまで手元に残し、大切に保管された家族の肖像画をご紹介します。
    モネによる妻や子供たちの肖像画は、画家であり父親であったモネの素顔を垣間見せてくれます。モネは家庭を大切にし、旅先からも家族を案じる手紙を頻繁に出しました。最初の妻カミーユとの間に生まれたジャンとミシェル、カミーユの没後再婚するアリスの子を合わせ8人の子供たちに囲まれていたモネは、一家のアルバムを作るように家族の幸せな日常を描きました。特にジャンはもっとも多くの作品に登場しますし、ミシェルは1歳頃、2歳半、5歳と年齢を重ねていく姿を肖像画で辿ることができます。これらの家族の肖像画は、子供たちの成長の記録であり、モネの家族との絆を感じさせてくれます。


    モネとルノワールは、1862年にパリのシャルル・グレールのアトリエで出会います。1869年から1870年代半ば頃まで、彼らはカンヴァスを並べて一緒に制作することもありました。二人の親しい交友関係は、1919年にルノワールが亡くなるまで続きました。
    本作品が描かれた1873年夏、意欲的に取り組んでいたサロン(官展)に2年続けて落選したルノワールは、パリを離れ、初めてアルジャントゥイユのモネの家に滞在します。この頃、ルノワールはモネとモネ夫人の肖像を何点か制作しました。本作品では、仕事着でパイプを燻らせるくつろいだ様子のモネが描かれています。あごひげに素早いタッチで配されたオレンジやパイプの煙の青など、自由な筆遣いによる鮮やかな色彩が印象派の予兆を感じさせてくれます。画中のモネが手にする新聞は、「NT」の文字が見えることから、おそらく「レヴェヌマン(L'Evenement)」紙でしょう。この新聞は、エミール・ゾラの美術批評を掲載するなど前衛的な芸術を支持していました。

    椅子に座る女性は、海に背を向け、こちら側をぼんやりと見つめています。おそろいのドレスを着た浜辺に座る女性は、読書に夢中になっているのでしょうか。二人の間に視線を向けると、自由な筆さばきで描かれた波打ち際で遊ぶ少年や、浜辺で時を過ごす大勢の人々が描かれています。何気なく撮影した写真のような雰囲気で、この時期のモネらしい大胆な構図となっています。本作品を制作した1870年夏、モネはカミーユ・ドンシューと正式に結婚し、このトゥルーヴィルに滞在しました。
    パリを起点とした鉄道網の発達により、この頃には中産階級のパリの人々も都会の喧騒を離れた地でヴァカンスや週末を過ごすようになります。その中でもトゥルーヴィルは、「浜辺の女王」とも称されるノルマンディー地方の人気の避暑地でした。画家のみならず、『失われた時を求めて』の作者マルセル・プルーストをはじめ多くの文豪たちも愛した場所として知られています。

    モネの最初の妻カミーユとの間の次男ミシェル、2歳の肖像。あどけない表情が素早く描きとめられています。長男ジャンは1914年に亡くなり、モネの死後、ミシェルがジヴェルニーの家と遺された作品を相続することとなります。

  • 第2章


    第2章 若き日のモネ

    モネは少年時代に、学校のノートにカリカチュア(風刺画)を描き、後にその腕前が町中で評判になりました。その売上が、画家を目指してパリに行く費用になったといいます。

  • 第3章


    第3章 収集家としてのモネ

    ジヴェルニーのモネの家には、彼が収集し愛でた作品が飾られていました。モネの暮らしを彩り、創作の源ともなったこれらの作品は、画家自身の作品とともに息子ミシェルからマルモッタン・モネ美術館に遺贈されました。モネの収集した作品は、ほかの画家とのつながりや彼の審美眼を垣間見せてくれるもので、画家モネをより深く理解する手掛かりとなるでしょう。本章ではこのコレクションから、モネが敬愛したドラクロワの作品や10代のモネに戸外制作を勧めたウジェーヌ・ブーダンの水彩画、ルノワールやカミーユ・ピサロら印象派の作品、一緒に展覧会を開催したオーギュスト・ロダンの彫刻のほか、モネの個展を契機に画家を志したポール・シニャックといった次世代の画家たちの作品をご紹介します。

    19世紀フランスのロマン主義を代表する画家ドラクロワ(1798-1863)。本作品は、モネも訪れたル・アーヴル近郊の景勝地を描いたものです。そびえ立つ石灰層の絶壁が大きく描かれ、前景には浜辺に打ち寄せる白波が巧みに捉えられています。波の浸食によって形成されたアーチ部分は、タイトル通り「馬の脚」のようにも見えます。モネは、若い頃からドラクロワを称賛していました。

    ヨンキント(1819-1891)は、17世紀オランダの海景画の流れを汲みつつも戸外制作を学んだオランダ出身の画家。モネ自身の言葉によれば、彼に「決定的な眼の教育」を施した画家でした。自然をよく観察し、一瞬の光を画面に定着させるヨンキントの作品は、モネのみならず多くの印象派の画家たちに影響を与えました。スペイン国境に近い南仏の港が落ち着いた色彩で描かれた本作品は、ヨンキントの死後の競売で、モネ自らが購入した作品です。

  • 第4章


    第4章 モティーフの狩人

    モネは、後半生を過ごすジヴェルニーに安住する以前には、よく旅をし、旅先の風景を描きました。まるで「狩人」のようだと称されたモネは、移ろうモティーフを画面に素早く捉えています。最初の長い旅行は、1870年に普仏戦争を避けるべく赴いたロンドンでした。テムズ川の流れる近代化したロンドンの風景だけではなく、イギリス風景画の巨匠ターナーらの作品からも大きく影響を受けます。翌1871年オランダを経由しフランスに帰国後、アルジャントゥイユへ移住し、セーヌ川の風景を描きました。1878年には家族を連れてヴェトゥイユへ、1883年にはジヴェルニーへ移り住みます。1880年から1885年にかけて、ノルマンディーの海岸を定期的に訪れ、朝や夕暮れの太陽による自然の変化を捉えていきました。ジヴェルニーに落ち着いた後も、時おり旅に出かけ、ノルウェーやロンドン、ヴェネツィアを訪れ、豊かな風景画を生み出していきました。

    1871年、モネはパリから鉄道で15分ほどのアルジャントゥイユに移り住みました。その後6年にわたってこの地を拠点としたモネは、セーヌ川の情景や豊かな自然にあふれた風景を描きます。1874年から1875年にかけての冬、モネは雪のアルジャントゥイユを描いた作品を15点ほど残しています。本作品はこのうちの1点で、家々の屋根や地面にうっすらと雪が残る夕暮れの情景が描かれています。どんよりとした空には、微かに沈みゆく陽の光が映し出され、煙突から立ち上る煙も見えます。この煙突は完成したばかりの製鉄工場のもので、産業の拡大に伴い、町並みが急速に変化していく様を象徴しているかのようです。雪の積もる空地には、枯れた草が自由な筆触で軽やかに表されています。雪景色は、モネだけではなく印象派の画家たちが好んで描いた主題のひとつでした。彼らは、雪の世界を白の単調な広がりではなく、雪に反射する繊細な光を捉え、微妙な色彩を用いて表しました。

    1880年代を通して、モネはよく旅に出かけ作品を制作しました。フランス北西部のノルマンディー沿岸の避暑地やブルターニュの島、地中海に面した南フランスの光輝く海辺、テムズ川の流れるロンドンや水の国オランダ。モネは各地で季節や天候によって異なる表情を見せる水辺の風景を画面に定着させていきました。
    本作品は、モネの3回目となるオランダ旅行で描かれたものです。水面のきらめきとチューリップ畑、風車、そして曇り空とオランダらしい風景が広がっています。ほぼ中央の地平線が、起伏のないどこまでも続く大地と空の広がりを感じさせ、中央の風車とそのラフな筆触が強い風の存在を感じさせます。モネは、風によって波打つ水面や揺れる花々を、水平に長い筆触によって表しました。雲の隙間から降り注いだ光を反射し、風に揺れる世界の美しい一瞬を見事に捉えています。

  • 第5章


    第5章 睡蓮の花―ジヴェルニーの庭

    ジヴェルニーの庭は、モネが造り上げた作品のひとつです。庭師も雇いますが、庭造りが好きなモネは自ら花の種類と配置を考え、絵を描くように美しい庭を育てていきました。邸宅前の花の庭だけではなく、やがて敷地を広げ池を造り、睡蓮の咲く水の庭を実現しました。長男ジャンが死去し第一次世界大戦が勃発する1914年、モネは「睡蓮」の大作に取り組み始めます。オランジュリー美術館の大装飾画となるこの「睡蓮」も、ジヴェルニーの庭から生まれたものです。制作のためにモネは、敷地の一画にガラス張りの大きなアトリエを建てました。本章では、この大装飾画の準備のために描かれた作品を含む6点の「睡蓮」や、睡蓮の池のほとりで育てられた花々を描いた作品をご紹介します。

    モネは絵を描くように、庭も自身の芸術作品として造り上げていきました。モネはさまざまな種類の花に興味を持ち、アガパンサスやアイリスもよく描きました。ジヴェルニーの自邸を浮世絵で飾ったモネは、水の庭のまわりで日本の植物を育てました。
    1883年、モネはパリから数十キロほどセーヌ川を下ったジヴェルニーに移り住みます。この時モネは42歳。そして86歳で亡くなるまで、このセーヌ川とエプト川の合流する自然豊かな村を拠点に制作を続けます。自邸からほど近いエプト川へたびたび制作に出かけ、舟遊びや釣りをする女性たちの穏やかな情景を描きました。
    やや縦長の正方形に近い画面のほとんどを占めるのは、透明な川の底で光を反射する水草です。水草は、黄色や赤の筆触がまるで小さな魚の群れのように川の流れに揺れ動いています。誰もいない小舟と暗い川底のうごめきは、異世界のような少し不気味な雰囲気さえ醸し出しています。モネは水中の世界を描く難しさについて、次のように手紙に書き残しました。「川底で揺れ動く水草と水を捉えるという、不可能なことに取り組みました。それは眺める分にはすばらしいのですが、描こうすると気が狂いそうになります。」



    1893年、モネは自邸の向かいに新たな土地を購入し、水の庭を造り始めます。モネは、生涯で200点を超える睡蓮を描いたといわれ、季節や天気、時間、さらには描く視点を変えて移ろいゆく水面を捉えようとしました。
    近い視点から水面を捉えた1903年の《睡蓮》には、睡蓮の花や映り込む柳の形態が比較的はっきりと認められます。1907年の《睡蓮》では筆触がやや粗くなり、睡蓮や木々の影は池に溶け込んでいくようです。画面上部にポプラと柳が逆光により濃く映り込み、画面下部に向かって空が描かれています。逆転した構成は、観者の見方を揺るがし、惹きつけます。1917年から1919年頃の《睡蓮》では水面が緑、赤、紫、黄色と豊かに彩られ、睡蓮を探すのが困難なほどです。ダイナミックな筆跡は、モネの衰えない熱意を感じさせます。しかし、このようなモネ晩年の躍動的な「睡蓮」が高い評価を受けるのは、1950年代の抽象表現主義の台頭まで待たなくてはなりませんでした



  • 第6章


    第6章 最晩年の作品

    モネ最晩年の作品は、粗い筆触で、それまでの繊細な色調とは異なり、赤系もしくは青系の色彩が強く、抽象画に近いものとなっていきます。描く対象はジヴェルニーの庭の中に限られていき、池に架けた日本風の太鼓橋やバラの小道のように同じモティーフが繰り返し描かれました。しかし、濃密に重ねられた太い筆触によって、画面に何が描かれているかを判別するのが難しくなっていきます。こうした作品には白内障の影響も窺えますが、モネは近距離では十分な視力があったとされ、自身の筆の運びは十分に認識できていたと考えられています。
    本章でご紹介する作品は、白内障の手術後も破棄されず、モネが生涯手放さずに残した作品です。これらの作品は、モネのもっとも内面的な部分を垣間見せてくれると同時に、20世紀半ば以降の新しい絵画表現の予兆を感じさせます。

    バラの小道は、モネの邸宅前に造られたバラのアーチがある道で、水の庭に架かる太鼓橋へとつながります。この小道を正面から描いた本作品は、黄色や赤の鮮やかな色彩が目に飛び込んでくる力強い作品となっています。同じ頃に描かれた「日本の橋」の連作と類似し、画面全体を均一に描くような表現は、抽象絵画のようです。
    この頃のモネは、制作にインスピレーションを与える美しい庭に囲まれながらも、失明の恐怖と闘っていました。1912年に白内障と診断され、視力が衰えたため1923年には3回の手術を受けます。制作においてどれほど眼病の影響があったかは定かではありませんが、手術後モネは、それ以前の数年間に描いた多くの作品を破棄しました。今日に伝わるこの頃の作品は、衰えた視力で描いていたとしても、画家自身が認めた作品といえるでしょう。


    1895年、モネは睡蓮の浮かぶ水の庭に日本風の太鼓橋を架けました。モネは水の庭に日本的なものを取り入れており、池のほとりには菖蒲やカキツバタ、柳や竹も配されていました。1899年から1900年にかけて描かれた太鼓橋の最初の連作は、自然主義的な調和ある繊細な風景でしたが、右の作品を含む1918年からの第二の連作では、橋の存在はそれと知って見なければ分からないほどです。この頃には太鼓橋の上部には、その曲線に沿うよう藤棚が設けられていました。画中にも橋と藤棚が二重の弧として描かれています。この時期の「日本の橋」は制作年が明らかではなく、年代順にその展開を辿ることはできませんが、白内障にもっとも苦しんでいた時期に描かれた作品も含まれています。ときに激しいタッチと色彩で描かれたこれらの連作は、モネが印象派の画家に留まることなく前衛であり続けた様を示しています。